インタビューにこだわる理由。
Story

お金があっちからこっちに流れた
あっちで大勢がさわいでいる
あっちからきた情報をこっちに
あれは、あっちでやってるから大きくなる
あの人がいってるから

そんな誰でもできるようなことを
誰でもできるような形でやる
そんなことに意味があるように思えない

今は検索も何もまだまだ未熟で
人間の中にある価値が
正当に評価されているようには思えない

だからといってコタツ記事を
毎日大量に刺激的な見出しで出していくような
打算的で軽率なことをやりたくないし
それで評価されたいなんて全く思わない

一番おもしろいことは
検索できない、みえない部分にある
それを引き出すのはものすごく大変で
両手にとれた時はダイヤよりうつくしい

その輝きは世代や人種を超えて
人の情動すべてをうばい
新たな門出や
最初の一歩へのきっかけを
あたえてくれるように思う

//maskin

世界の仲間と活動するということ(1)
Story

生まれて初めて日本在住以外の人とコミュニケーションを取ったのは高校生の時でした。それ以前にも私が生まれた栃木県宇都宮市は、シャープや本田、キリン、日産、花王などなど研究所が多く日本全国から多くの人が転勤してきていて、国外からきている人も多くいたように思います。幼少の時は近くの外国人居住区で発砲時間なんかがあったことも記憶しています。

本当の意味で海外にいる人とコミュニケーションをとったのは、おそらく15歳くらい。パソコンを生み出す前のAppleが開発した初プロダクト「ブルーボックス」(電話を無料でかける違法装置)を知人が輸入し、近所のパソコンショップ付けのグループルーム(当時はショップ横に会員制でパソコンを使用できるエリアがあった。みんな開発していた。今のスタートアップより熱い)でアメリカ・カリフォルニア州バークレーの大学に接続したのです。

はじめはスラングばっかりで何をいっているか不明でしたが、途中から日本人だと気がつき、なんとなく丁寧な言葉で「そっちはどうよ」的な会話(チャット)をしたことをぼんやり覚えています。相手は17歳と23歳でした。

それから数年、副社長がアメリカ人の会社に入社し、すぐにアメリカに渡りました。大きなイベント会場を一人で歩きまわり、英語がかたことなのを武器に、いろいろな立ち入り禁止エリアに入りまくり、あろうことか「日本こないの?」みたいな営業までやりまくっていました。多様な国と地域、胸中の話題をみつけるのに始めは難儀していましたが、若いもの同士、テレビゲームの話題でもりあがりました。世界中どこでも通用したのは「マリオカート」でした。

英語力は根本的な問題となりますが、一定のレベルをクリアすると、あとは意欲でどうにかなるものでした。得にアメリカ西海岸、シリコンバレーエリア(サンフランシスコを含む)はオリエンタルの町と呼ばれるほどで、みんな英語が第二外国語だったため、言葉に苦労することは共通の課題だったことも助けられました(最近スペインの会社にはいっても同じことがおきました)。

世界何か国もの人と交流して気がついたのは、オープンであるということでした。栃木県は思い出すのも嫌になるくらい封建的だったので、それだけで人生が変わるほどのインパクトを感じていました。もちろん、オープンである反面、意思が明確なので、嫌なものはイヤ、だめなものはダメとはっきりしています。ビックリすることもありますが、こっちも意思を明確にしていれば、それは単なるキャッチボールになります。対話が成立すればするほど、安心できるというか、意欲が満ちあふれてきます。

海外で交流した多くの人と、今でも定期的に対話を続けています。時々、世界にちらばっている人にあいにいったり、日本できてもらえるようなイベントを考えたりします。これは幸せなことです。自分は幼稚園の時に「ともだち100人できるかな」という歌が大好きで「絶対世界中に友達つくる」と興奮していたものです。

(続く)

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